top of page
牧師コラム『執務室の小さな窓から』
今週のコラム
【執務室の小さな窓から】 No.466「私の教会観(6)」
教会生活の学びにちなんだこのシリーズも今回で最後。「賜物としての」教会生活を「仕える」牧師という視点で私の経験を分かち合います。私にとって、出身教会は神様からの賜物だったと常々思っています。小学生の頃、10代の頃と精神的に経済的に孤独とストレスをそれなりにおぼえていました。しかしその都度、教会は私の居場所として、神様からの贈り物でした。そして、人格的な成長の場としても教会は賜物でした。至らない部分(今も多分にありますが)からの成長、「仕える」ことを教えられたのも教会でした。「神様のために」「教会のために」と心が向けられるようになっていた当時の私、それでも至らない私。ある日曜の夕方、伝道師であった姉に怒られたことがありました。「あなたが、しなさい」と。私、何のことかとポカン。とさらに「先生がされているのがわからへん?」と。そうして、そこにあるのは、牧師が何かの集会(おそらく青年会)の片付けをし、次の準備をしている様でした。ハッとさせられ「先生、僕がしますよ」というと牧師は『?』の仕草。それはあまりにも自然でした。そうして、私はその有り様に頭を打たれたのでした。仕えることが自然になされるとき、それに気付かされた人は自発的な思いを生じさせる。教会の中で、キリストの愛に生かされている存在によって、人は変えられていくのだろうと思います。加藤秀典
bottom of page